波乱万丈、残された人生をゴルフで楽しく

永野 公男さん 下肢障がい / --- / JHGA「君は輝く」の作詞者
                               

運動とは縁のない幼少時代

私は4才の時に産みの母を亡くし、5才のときに脊髄カリエスと言う病気にかかり寝たきりであったため、一年遅れて小学校に入学しました。小学校2年生の時に義理の母を迎えることになり更に同じ年の後半にカリエスを再発。5年生の後半までは再度仰向けに寝たきりの生活となり、その間義理の母でもありかなり辛い思いもしました。

カリエスの完治と同時にそのまま6年生になって、引き続き中学高校と過ごしましたが、青春の大事な時期に殆ど勉強が出来なかったので、みんなについていくのが大変でした。また、病気の後遺症で両股関節が90度しか曲がらず体育の授業は常に見学でした。

抑圧された反動からバイクで事故

抑圧された子供時代の反動でしょうか?
16歳で原付の免許を取得して18歳になると同時に大型バイクの免許を取りバンバン走り回っていました。21歳の時大型バイクで自損事故をおこし右膝下の切断となりました。

親友の誘いに乗り練習もせずゴルフを開始

もともと体育はずーっと見学でスポーツは無縁と思っていました。私には小学校中学校そして現在も付き合っている親友が6人いて、その中の松村君が「お前は明るく前向きだから、義足であっても工夫すれば何でも出来るよ」と言い、スキー・スケートと一緒にしました。

スキーは何かで見たと言い、短いスキー板を手作りで作ってくれて二人で関東から東北北海道のスキー場は制覇しました。その頃はスキーに夢中でした。

ゴルフもまた松村君がやろうよと言うことで28歳くらいの時に、練習せずいきなり松戸の河川敷に行き、いきなり18ホールを回りましたがボロボロでした。いま考えれば、マナーもルールま知らず無謀なゴルフでした。

その大親友の松村君は37歳の時に癌で亡くなりました。
10代から30代まで、何をやるのも一緒であった彼が亡くなったことは正直自分の片足を無くした時よりショックでした。今は彼の分まで生きています。その後彼のところに行ったときは、楽しんできたよ、楽しかったよ、と報告したいと思います。

破産後、独立して友人のことを思い出しゴルフを再開

その後、父から継いだ会社を38歳の時、手形の不渡りをくらい倒産し一文無しになりました。当時取引していた会社に就職して4年後に独立しました。仕事も余裕が出てきた頃、取引先の社長にゴルフをやろうと言われ、松村君との松戸のゴルフ場のことを思い出し2年ぐらい練習場に通いました。どうにか打てるようになった二度目のコースデビューは軽井沢72でした。爽やかな風みどりのコースでスコアーは140位でしたが、見事にゴルフの魅力にはまりました。
その後友人や取引先の人たちと月一ぐらいで回っています。

障がい者ゴルフとの出会い

ある時、障がい者ゴルフ協会があると聞き、近くに住んでいたその会員の駒井さんと会ってから、障がい者の皆さんとゴルフをするようになりました。やはり障がい者の皆さんと回るのは気心が知れているので気を使わず楽しく回れます。現在のジャパンハンディキャップゴルフ協会には立ち上げの時から参加し、理事の皆さんといかに楽しくゴルフが出来るようにと頑張っています。

これからも障がい者と理解ある健常者の皆さん(私の親友の三人が入会)が楽しくゴルフが出来るようにお手伝いをしていきます。